ふじさわマイタウン
 

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湘南の伝統工芸「片瀬こま」製作技術を受け継ぐ、
唯一の継承者 熊野安正さんとその応援者達
 

 

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説明 9月市民ギャラリー「趣味の展示会」に出品された片瀬こま
<はじめに>

かつて昭和のこま黄金期に「湘南で最強の喧嘩こま」とうたわれた「片瀬こま」を、貴方はご存知か?
片瀬こまのうわさが広がり関東一円では模倣品も作られ、それらを含め「藤沢こま」の愛称で知られた。
しかし片瀬こまは昭和37年に亡くなった1人の職人を最後に途絶えた。
だから、リアルに片瀬こまに接したのは現在55歳以上の方たちか、家に残っていたこまで遊んだ人々に限られてしまう。
最強の喧嘩こま「片瀬こま」は「幻の独楽」となった。
SMAPの中居正広さん(現36)が片瀬こまで遊んだ話を、一昨年TV番組で話題にしたのは、ある意味で奇跡のようなことではなかったか。
このTV番組から、いったん途絶えた片瀬こまを、片瀬在住の 熊野安正さんが技術を受け継いで最後のこま職人(実は安正さんの父幸太郎さん)他界の33年後に復活し、現在こまを作っていることが分かった。
湘南台文化センター「こども館」では、長らく毎年正月のイベントに「片瀬こま」をメインにした遊びをこども達に体験させてきた方がいて、片瀬こま復活のためにさまざまなイベントを企画実行している藤沢青年会議所(JC)の方々もいる。
彼らがみな等しくSMAP中居さんと前後する30代後半の年代であるのも、途絶えて幻となった片瀬こまへの強い愛情と執着を感じさせる。
記憶に残る父親のこまつくりの姿を思い出しながら(一から)技術を復活させた、片瀬こま継承者の熊野さんと、片瀬こまを愛しその復活に努力している方々の活動を紹介する。
<第1章 片瀬こま復活へ>

本年(2009年)正月、江ノ電沿線新聞の元旦号に<新春放談>として「片瀬こま」が大きく取り上げられた。ご記憶の方も居られるかもしれない。
この内容が、片瀬こまを復活させたいとするブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/katasekoma/folder/313284.html?m=lc&p=1)にも紹介されている。
同じブログに、藤沢青年会議所の1年余りの期間に行った片瀬こま普及の活動が詳細に記載されている。大変な力の入れようである。

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片瀬こまを主役にした、お正月飾り。きりりとしたシャープさが凛とした雰囲気をかもしだす。

このブログをさかのぼってゆくと、昨2008年1月タウンニュース紙の記事掲載が紹介されている
そこで原本を探すと、次のようにあった
【 (社)藤沢JCが普及活動開始  素朴なデザインが特徴の「片瀬こま」 】
かつて湘南地域で最強といわれた手作りのけんかコマ「片瀬こま」の復活に向けて(社)藤沢青年会議所(藤沢JC・伊澤孝次理事長)が動き出した。「子どもたちのためのまちづくり」を今年の中期運動指標に掲げるJCでは、「地域の伝統や文化を継承しながら、親子や地域とのきずなを深めるきっかけに」と、消えつつある「片瀬こま」の復活に取り組むことを決めた。・・・以下省略・・・(以上タウンニュース紙 2008年1月18日号より抜粋、 詳細は次のサイト記事を参照: http://www.townnews.co.jp/020area_page/03_fri/01_fuji/2008_1/01_18/fuji_top2.html
同様の記事は、2008年2月24日付け神奈川新聞にも掲載されている。
<親子、地域のきずな深めて 「片瀬こま」次世代へ 藤沢青年会議所、復活に向け活動>とある。
これら一連の報道は、藤沢青年会議所(藤沢JC)の復活活動を取り上げている。
以下は推定であるが・・・・、この片瀬こま復活活動には、あるきっかけがあった。
2007年、日本テレビ深夜番組「ブラックバラエティ」でSMAPの中居正広さんが、自分の子供時代に遊んだ片瀬こまを話題にしたこと、であったらしい。
この時、番組制作者が調査を行ったが、最初は販売する店も見つからず「片瀬こまは途絶えた。幻のこま」といわれた。
が、その後、藤沢市立 湘南台文化センター「こども館」で鈴木都三聡氏などが毎年1月に片瀬こまをメインに遊び方を教えていること、ただ一人こま職人の熊野氏が居るということがわかり、これらをまとめた映像が同番組で放映された。
<第2章 藤沢青年会議所の普及活動>
ふたたび上記タウンユース(2008年1月18日号)より抜粋すれば「今年1年は普及の年。イベントなどで要望があれば、片瀬こまを披露したい」と、地域力創造委員会の杉下由輝委員長。来年には市民を主体とした「(仮称)片瀬こま保存会を立ち上げたい」としている。・・・以下省略・・・
実は、藤沢青年会議所では、一昨年より「子どもたちのためのまちづくり」という大きなビジョンを揚げていた。
このビジョン実現する方策の一つである<伝統的な郷土愛を育む>に対して、具体的なテーマとして「片瀬こま復活」が浮かび上がった。
まず細々と作られていた片瀬こま作りを継続できるように、使ってくれる人(こども)を増やす普及活動から始めることになった。
藤沢JCは、復活への最初の動きとして、2008年2月の公開例会「片瀬こまを復活させよう」を開催した。
その後、JCの地域力推進委員会委員長である杉下由輝氏らは、片瀬コマを復活させ、地域の伝統・文化の継承や親子・地域のきずなを深めるきっかけにしたいと、積極的にイベントを計画し、実行に移してきた。
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写真説明:蔵前ギャラリーでのこま展示風景(一緒に遊ぶお子さん達のかわいい写真は、割愛しております)

藤沢青年会議所では上記の地域力推進委員会委員長 杉下由輝氏のほかにも、
関野副理事長、郷土愛創造委員会委員長 菅野正二郎氏、そして現代寺子屋「藤澤こころ塾」を開催した教育力創造委員会委員長 鈴木 竜樹氏など多くの方々が片瀬こま復活と普及の活動を行った。
さらに、片瀬こまを起点として大島との提携も視野に入れている。
ここで藤沢JC関連ブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/katasekoma/6434502.html)には、
「片瀬こまの本体部分の椿の仕入れルートを確保するため、伊澤理事長、小澤直前理事長、関野副理事長、重田副委員長、宮戸君、服部君、熊野様(こま職人)、杉下の8名で大島視察に行ってきました。・・・以下省略・・・」とある。
このように、片瀬こま継承者の熊野氏もこれらの復活運動の動きに賛同し、歩調を合わせていった。
ちなみに大島側(大島商工会)では国の補助事業として、「シナジースキーム事業椿のルネッサンス」がスタート、椿の伐採などが盛り込まれて、伐採された椿の再利用が可能になったため、片瀬こまに転用することができるとし、環境にも優しい連携が取れることも分かったそうだ。
さらにJCでは、現在、片瀬こまのモニュメントを片瀬漁港近くに建設中で、11月にお目見えの予定。華々しく落成記念を行うとのこと。
休むことなく活動が継続され、なおかつ大きなうねりになりそうな予感が、いや具体的な予兆が見え始めている。
<第3章 片瀬こま唯一の継承者 熊野さん そして弟子の誕生>
諏訪神社(通称 片瀬諏訪)の藤沢よりにある片瀬小学校、その近く民家の庭先で、木工ろくろで木を削る音が鋭く響く。
「片瀬こま」のただ一人の継承者熊野安正さん(74歳)の工房である。
硬材である椿が見る間に形を作ってゆく。
木工ろくろ(木工旋盤)は安正さんの父親 幸太郎さんがこま作りを行っているときのもので、早い時期の電動ろくろとしてかれこれ70年ほど経っているが、まったく問題なく使えるそうだ。
また切削工具(バイト=刃物)なども先代の工具に、安正さんが追加しながら使っている。

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天井につるしたこまは乾燥中
先代から受け継いだ木工機械を使って切削を習っている弟子(左) 、および指導中の熊野さん(右)。

熊野さんの、椿原木の切断作業の本体

片瀬こまを作る最後の一人といわれた熊野幸太郎さんは、昭和37年(1962年)73歳で永眠した。その後33年のブランクがあったため、幸太郎さんが亡くなってからは、専門的に作っている職人はいないといわれていた。
息子である安正さんは、若い頃父親のこま作りを見ていたが、サラリーマン時代はまったく手をつけず、平成7年(1995年)定年を迎えたときに、ふたたび趣味のこま作りを始めた。
父親の使っていた機械、道具と小屋、そしてこまが残っていて、父親の製作の姿を思い出しながら、見よう見まねでこま作りを始めた。
父親と同じこまが作れたとき、熊野安正さんただ一人だけが片瀬こまの技術を受け継ぎ製作していることになった。
しかしだからといって「正直、受け継がなきゃいけない!との強い思いはなかった」という。
作り始めてしばらくは単純に趣味としてマイペースで製作し楽しんでいたそうだ。
こま作りの再開から12年のおととし、上記のようにテレビ番組で取り上げられ、さらに、他のメディアでも片瀬こまが紹介されるようになった。
昨年に入ってからは藤沢JCの主催するイベントがたびたび開催されるなど、片瀬コマ復活に向けて熊野さんの周囲の情況が活発になってきた。
ただそのために無理をし過ぎたり、あるいは重荷に感じる、ということは無いそうである。「ほぼ、マイペースでいけている」とのこと。
ひところ熊野さんも「今後の展開がどうなっていくのか、期待もあるしプレッシャーもある」と考えたそうだ。が、それもJCの計らいで、シニアの集まりであるNPO法人湘南ふじさわシニアネット(SFSネット)から自由参加の6名が熊野さんの弟子となって、技の伝承を受けている。
7月から片瀬こま製作現場では、熊野さんと奥さんそして弟子達が集い、時折JCの関係者も交えて、こま製作、ミニこま製作、あるいは紐を綯(な)う姿が垣間見られるようになった。

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SFSメンバーの弟子入り:
真夏の日をよけ、麻紐を集めてこま紐を綯(な)う。

こま本体の材料取り(切断)作業。

11月のJCによる片瀬こまモニュメント完成時には、熊野さん指導による弟子の作品が商品レベルでお目見えする予定だそうだ。

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片瀬こまモニュメント落成除幕式に合わせて、弟子によるこま製作が急ピッチ。

またNPO法人SFSネットのほうでも片瀬こまを藤沢市民に知ってもらうための認知・啓蒙活動を始めている。

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展示品 熊野安正作

展示品 弟子6名(SFSメンバー)作

このSFSネットも、市民ギャラリーでの趣味の展示会開催に、弟子達の片瀬こま習作を展示したり、9月末の藤沢市民まつりでは片瀬こまを出展テント前で子供と一緒に遊ぶなどの宣伝イベントを始めた。
JCではさらなる展開を検討していて、熊野さんも「次の世代に片瀬コマ作りを受け継いでいってもらえ、一緒にこまを作って行ければと期待しています。」とのことである。
<第4章 片瀬こまの歴史>


独楽(こま)が、子供たちの主要な遊びとなったのは江戸時代。子どもたちは巻貝を加工した小さな独楽(こま)の回しっこをしていた。
とりわけ貝類の豊富だった江の島や片瀬では貝殻に細工した独楽は容易に作って遊べる環境にあった。
江戸末期の天保年間には喧嘩独楽として、より強くなるように胴の外側に鉄輪をはめた鉄胴ゴマが作られるようになった。その後、日本の各地で喧嘩独楽は盛んに作られた。
本体の材質も鉄や真鍮製の小振りのベーゴマもあり、木製の大振りの喧嘩独楽も多くなった。
木製喧嘩独楽として進化したものでは、佐世保独楽(ラッキョウ形木地、鉄芯)が有名で、明治期に始まった。
明治、大正期には、木地師の多い生産地、特に木工轆轤(ろくろ)を操る挽物師(ひきものし)の居るところ(箱根、東北の温泉地、木曾の宿場町など)では、椀や盆製作の合い間に大量に作られ、みやげ物として販売された。
独楽(こま)の黄金期は戦争期を除く、昭和初期から昭和45年(1970年)頃までの40年ほど。
この時期は、名のある生産地だけでなく子供の多い消費地近隣でも作られることが多く、街中の駄菓子屋にはどこも山のように独楽が置いてあった。ちょっと高額な菓子程度の価格であった。

片瀬こまの歴史に話を戻そう
片瀬こまは伊勢原の大山独楽の流れを汲むとも言われているが、まあ、江戸時代より大山と江の島はセットの観光地であった。大山独楽を見て誘発されて、大工さんなどが片手間にこまを作る、というところかもしれない。
片瀬でのこまつくりは、大正時代の終わり頃に、片瀬や腰越(鎌倉市)で作られ始め、次第に藤沢などに広まっていったようである。

こまのような木工製品が商業ベースに乗るためには、ユーザーが居て、原料、機材、職人が揃う必要があるだろう。
明治まで鵠沼は小ぶりな湾を形作り片瀬地区は江戸時代、海運の要所であった。
大成金の紀伊国屋文左衛門の廻船も多くは、回り込みが長く難所の多い浦賀水道を避け、とりわけ天気の怪しいときには伊豆沖より片瀬の奥、境川に直行し荷揚げをしたそうな。
この境川近辺には、鎌倉幕府による明渡航船建造の大鋸(だいぎり)以来、船大工が多く、大正、昭和の時代には漁港のある片瀬や腰越に船大工が集合していた。
木工のこまつくりの環境は整っていた。ただし、職人の技量としては少し筋が違っていた。
さて箱根の畑宿は、箱根でももっとも木工が盛んな土地であった。そこでは椀のような食器類を轆轤(ろくろ)で加工する挽物(ひきもの)職人と、家具制作や彫刻を行う指物(さしもの)職人とが大勢集まっていた。
時に、大正元年箱根・畑宿で発生した大火事によって、畑宿のすべての集落が焼け出された。畑宿の挽物(ひきもの)職人である小林市蔵というひとが、家を失って片瀬の親戚を頼ってきた。これが片瀬こまのルーツと言われている。
木工の環境はあっても、轆轤を操る挽物の技術が無く、よく回るコマを作れない片瀬地区に、最新の轆轤技術を有する挽物師の小林市蔵さんが移住した。
彼は轆轤技術を生かした生業を続けた。この当時の最新の轆轤は一人で作業ができる足踏み轆轤で、一昔前のミシンを思い出せば、原理は似ている。
江の島という一大観光地にあって、土産になるこま、よく回るこまの製作販売は必然であったと思われる。最初はみやげ物として盛んに作られた大山独楽の模倣であったかもしれない。
この小林さんを見習う形で足踏み轆轤を使ってこまを作れる職人が増え、あちこちでこまの製作を行うようになった大正末期から昭和初期の辺りで、片瀬こまが定着した。
その後昭和初期に、次第に喧嘩独楽として独自の道を歩み始めたのではないか?
片瀬こまは大山独楽とは別種の形態に変形・進化し「湘南最強の喧嘩独楽」といわれるようになった。

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強い喧嘩独楽「片瀬こま」は、うわさを呼び関東一円に広がってゆき、模倣で作られた独楽は「藤沢こま」とも呼ばれた。
昭和元年(大正15年)に大工職の熊野幸太郎さんは37歳であったから、片瀬こまの進化の過程はすべて手の内にあったのではないだろうか。
彼が最後の片瀬こま職人といわれ、彼の他界によって片瀬こまが幻のこまになった経緯を考えると、幸太郎さんこそ片瀬こまの技術を牽引していたのではないかと思える。
その後33年のブランクの後、熊野安正さんが、ただ一人の伝承者として片瀬こま製作を再開した。今から13年前のことである。
父親の幸太郎さんが片瀬コマを作っていた当時に使っていた機械と道具も、33年後に復活し、いまでも健在、現役で役に立っている。
不思議なことに、33年のブランクの間にも、片瀬こまは父から子へと受け継がれて、本来なら知りえることの無い40歳以下の方にも、愛好者が居るということだ。
利用者のほうも世代間で片瀬こまの遊び方が継承されるほど、片瀬こまの魅力が大きいということだろう。
持ち寄られる古いこまは、もう輪郭がはっきりしないほどぼろぼろになったものが多い。
これだけ遊んでもらえたこまは、もはや冥利に尽きることだろう。
<第5章 片瀬こまの特徴>
かつて湘南最強の喧嘩独楽と言われた片瀬こま。
それは藤沢だけでなく関東各地に広まり模倣独楽も作られ、それらは「藤沢こま」と称された。
さて、喧嘩独楽は相手の回っているこまに自分の独楽をぶつけて弾き飛ばす。
片瀬こまは、ツバキが材料で、木の風合いを大切にした素朴なデザインが特徴。
何かと同じ神奈川県伊勢原の「大山独楽」と比較される「片瀬こま」だが、その違いは大きく、材料も形状も異なっている。
「片瀬こま」の本体(木地)は椿、芯棒は樫の木だ。どちらも硬い硬材である。
生の椿材は乾燥により多くの水分を放出するが、その分外形が1割も収縮し、さらに硬く重い材料に変化する。樫の木はそれほど重くないが木刀や農耕具の柄に使われる強靭さが特徴である。
こまとこまがぶつかり合い、はじけ飛んでも決して割れず、砂利(じゃり)の多い路上で回しても心棒がなかなか磨り減らない。

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本体の椿、心棒の樫、どちらも十分に硬い、喧嘩こまには必要な材料であるが、硬すぎて職人泣かせでもある。心棒は本体の出来具合に合わせて、1つ1つ個別に調整して差し込む。

片瀬こまは、喧嘩独楽として材料も形状も変化し、進化したのである。

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片瀬こまの変化(1)
現在の片瀬こま(左)と 神奈川県伊勢原の大山独楽(右)
片瀬こまは大山独楽に比べ、はるかに重心が低く、芯も太い頑丈な樫を挿入する。喧嘩独楽だから側面の色付けはしない。そのため硬質の椿の木肌が美しく、手で持ってみると、艶やかでしっとりした、とても良い手触り感がある

これが、湘南最強、相州一の喧嘩独楽ともてはやされた理由の一つ。
まだ昭和の匂いが強かった頃の路地裏では男の子たちが「片瀬こま」を持ち寄って、その腕を競い合った。
「昔、このこまで遊んだ」という昔の腕白坊主達は一様に「心棒の先に改良を加えた」という。
方法は先端への埋め込みで、硬い樫の木をくりぬいて①ベアリング球 ②パチンコ玉 ③蓄音機の鉄針 ④5寸釘の先端 などを埋め込んだ。
その強い喧嘩独楽へのもう一つの変化が、低重心。心棒の本体より飛び出ている上部分を削ってなくしてしまって重心を下げるなどの改良も行われた。
相手の独楽と衝突しても容易にコケない安定した回転も大切だ。
喧嘩に勝つための執念である。

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片瀬こまの変化(2)
昔の片瀬こま(左)と 最近の片瀬こま(右)
片瀬こまは重心が低く芯も太く頑丈な樫を挿入する。最近の片瀬こまは本体木地を厚くして重心をさらに下げ、色付けも華やかになっている。本体を厚くしたことで回転時の軸ぶれを無くすための、加工精度の向上もより必要になった。

このような子供らの「もっと強く!」という欲求が、こま製作者に反映し、その材質や形状に変化をもたらしていった。こども達こそ、片瀬こま進化の主役であった。
昭和から平成と時代が変わって、一時「片瀬こまは幻のこま、途絶えてしまった」と言われながらも、片瀬地区でこまはさらに進化していた。
こま本体下部の円錐(ななめ)部分に溝(ミゾ=筋目)が入り、こま紐の喰いつきが良くなって、さらに強く回転力を与えられるようになっていた。
このことは、熊野安正さんが、こま作りを楽しみながら、気負わず気長に、かつ近隣のこども達の喜びを励みとして継続してきたからこその、必然的な進化であると思われる。
<第6章 片瀬こまはさらに進化する?>

片瀬こまは、地元では男の子が生まれたときや、新築祝いなどの贈答品として用いられていたこともあり、「昔もらって自宅で眠っているコマがある」というお話は藤沢市民まつりへの展示を通して聴くことが多い。
ところで、昔の片瀬こま(先代の幸太郎さん製作)は、質実剛健そのものの、鋭角なフォルムのこまである。
先代の幸太郎さんはいわゆる職人肌で、気が向いたら作り、そうでなければ相手にしない、といった気質であったそうな。
その先代の作った作品の中に、こまのネックレス、簪(かんざし)などもあったと、安正さんの奥様から聞いた。いまでいうミニこま、である。
気難しい先代の作ったこまの簪? 片瀬・江ノ島の芸者衆にでもプレゼントしたのかな?

現在はミニこまを、携帯などのストラップをつけて製作している

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現在作られているミニこま
先代も簪にするほどミニこまに愛着を持っていたようだが、現在は携帯ストラップなどの用途が多い。 可愛いだけで片瀬こまではない? いいえ、 椿の手触りと、外形の近似、十分片瀬こまです
(なお、右側のこけしのようなものは弟子が暇な時間に削ったもの、無視OK)

また、新築の贈答用、正月飾り用として、直径15cmもあるような超大型のこまも作られている。
飾り用のこまの形状は喧嘩独楽である片瀬こまの特徴を保ちながらも、少し変化している。縁の色付けが赤色が主体になった(先代は無色、平成版は緑)。また本体下部の斜めの円錐部分の切り方は本来直線的だが、飾り用は微妙に丸みを帯びたカーブになっている。

クラシックな先代の片瀬こまも良い
今の片瀬こまも良い
飾り独楽も絵になる
ミニこまも楽しくて可愛い
片瀬こま は、これからもどんどん進化したり分岐したりするのかもしれません。
最強の喧嘩こまを追及して進化した、シャープな外形と、機能美、それらを継承しながら、新しいこまが生み出されるのも期待します。

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9月SFSネット関連の展示会会場にて
右から藤沢JC関野氏、熊野氏、筆者

左記に同じ
左はSFSネットのこま製作チーフの市川氏

熊野さん、そして片瀬こま復活を応援している皆さん、ぜひ素敵な夢を子供たちに与えていってください。
(おわり)

 

 
 
 
 
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