湘南の西行
2018年8月7日 (Itazu)
旅と隠遁生活を生涯続けた平安末期の代表的な歌僧、西行(1118~1190)は、各地を遍歴しながら数多くの歌を詠んだ。湘南においても、西行ゆかりの地(「鴫立つ沢」に関連するスポット)がいくつかある。
①大磯の鴫立庵 ②茅ケ崎の歌碑 ③辻堂の歌碑、④藤沢の西行もどりの松
①大磯の鴫立庵 ②茅ケ崎の歌碑 ③辻堂の歌碑、④藤沢の西行もどりの松


説話物語「西行物語」(13世紀半成立)の「鴫立つ沢」には、次の記述がある。
相模国大庭の砥上原(とがみがはら)を過ぎるとき、野を立ち込めた霧の絶え間から、風に乗って鹿の鳴く声が聞こえてきたので
えは迷ふ葛の繁みに妻籠めて砥上原に牡鹿鳴くなり←(A)
その夕暮れ、沢辺の鴫がとびたつ羽音がしたので
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮←(B)
大庭の砥上原(とがみがはら)というのは、現在の藤沢市鵠沼付近で片瀬川西岸の原野を指すが、西行物語は、西行の生涯を虚実とりまぜて実録楓に書いた説話物語であり、どこで詠んだか、砥上原から鴫立沢へ至る場所が必ずしも特定されていない。
湘南の西行のゆかりの場所も、大磯、茅ヶ崎、辻堂、鵠沼の4か所に分散している。
注:(A)の歌は、えは迷ふ(西行物語)→芝まとふ(茅ヶ崎)→柴松の(辻堂)と表現が異なっている。
相模国大庭の砥上原(とがみがはら)を過ぎるとき、野を立ち込めた霧の絶え間から、風に乗って鹿の鳴く声が聞こえてきたので
えは迷ふ葛の繁みに妻籠めて砥上原に牡鹿鳴くなり←(A)
その夕暮れ、沢辺の鴫がとびたつ羽音がしたので
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮←(B)
大庭の砥上原(とがみがはら)というのは、現在の藤沢市鵠沼付近で片瀬川西岸の原野を指すが、西行物語は、西行の生涯を虚実とりまぜて実録楓に書いた説話物語であり、どこで詠んだか、砥上原から鴫立沢へ至る場所が必ずしも特定されていない。
湘南の西行のゆかりの場所も、大磯、茅ヶ崎、辻堂、鵠沼の4か所に分散している。
注:(A)の歌は、えは迷ふ(西行物語)→芝まとふ(茅ヶ崎)→柴松の(辻堂)と表現が異なっている。
①大磯の鴫立沢
大磯にある鴫立沢には、西行法師が鴫立沢を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりあり


1664年小田原の崇雪がこの地に草庵を結んで鴫立沢の標石を建てたとあります。その後、俳諧師大淀三千風(1700~1750)が鴫立庵を建てている。ここには、西行の等身坐像が安置された円位堂がある。円位は、西行の法名。
諸国をめぐる旅の中で大磯を訪れたとされ、「新古今和歌集」において「三夕の歌」といわれるうちの一首を詠んだといわれています。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮
(新古今和歌集の寂連、西行、定家の三人の歌が、「秋の夕暮れ」で終わることから「三夕(さんせき)の歌」と呼ばれる)
諸国をめぐる旅の中で大磯を訪れたとされ、「新古今和歌集」において「三夕の歌」といわれるうちの一首を詠んだといわれています。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮
(新古今和歌集の寂連、西行、定家の三人の歌が、「秋の夕暮れ」で終わることから「三夕(さんせき)の歌」と呼ばれる)
②茅ケ崎の歌碑
茅ヶ崎文化資料館の門柱に西行の歌碑がある。1189年西行が鎌倉の頼朝と会ったあと、茅ケ崎の通りすがりに人の世寂しさを詠んだ歌といわれている。
芝まとふ葛のしげみに妻籠めて砥上ケ原に牡鹿鳴くなり
芝まとふ葛のしげみに妻籠めて砥上ケ原に牡鹿鳴くなり

歌碑は、以前国道134号のバスロータリにあったが道路改修のため移設したもの。 上記案内板の写真参照。


茅ヶ崎文化資料館の門柱 刻まれた歌碑
③辻堂の歌碑
辻堂駅南口の近くの熊の森権現(写真下)に1186年東大寺再建のための勧進行脚の折、ここにあった根上がりの松に腰かけて詠んだ句とされる。
柴松の葛のしげみに妻こめてとなみが原に牡鹿鳴くなり
柴松の葛のしげみに妻こめてとなみが原に牡鹿鳴くなり

④藤沢の西行もどりの松


江ノ電江の島駅ちかくの片瀬海岸にに「西行もどりの松」の伝えが遺っている(写真上)。西行が鎌倉へ向かう際に江の島道を通ったされることから生まれたとされる。他の場所と異なり、歌碑ではない
「鴫立つ沢」に関する説話は、西行物語と同時期に書かれた説話物語「今(いま)物語」にもある。
陸奥国への旅の途中「千載集」撰進(歌集などを天皇に奉ずる)の話を聞き「鴫立つ沢」の歌の入集を案じたが、入集せずと聞いて旅に戻る
という話があり、これが、西行が歌問答で子供(実は神)に言い負かされて退散するという「西行もどりの松」の伝承のもとになっている。「西行戻し」は和歌の世界を脱け出そうとして出来ない西行を語る伝承として、全国にもあちらこちらにある。
この伝承がこの場所にもあることについて、西行物語(桑原博史 全訳注)の解説では、「鴫立つ沢」の歌が読まれた場所が、砥上原(とがみがはら)のここではななかったかと、場所を特定する意味があったのではないかと言われている。
以上の記述は、それぞれゆかりの地の案内板と下記2冊を参照。
●西行物語(桑原博史 全訳注)講談社学術文庫
●西行(西澤美仁編)角川文庫
尚、蛇足ながら、鴫立庵には、崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建て、<著儘湘南清絶地>と刻んだことから、「湘南」の名称発祥の地といわれる。 西行と湘南には、意外な結びつきがあった。
「鴫立つ沢」に関する説話は、西行物語と同時期に書かれた説話物語「今(いま)物語」にもある。
陸奥国への旅の途中「千載集」撰進(歌集などを天皇に奉ずる)の話を聞き「鴫立つ沢」の歌の入集を案じたが、入集せずと聞いて旅に戻る
という話があり、これが、西行が歌問答で子供(実は神)に言い負かされて退散するという「西行もどりの松」の伝承のもとになっている。「西行戻し」は和歌の世界を脱け出そうとして出来ない西行を語る伝承として、全国にもあちらこちらにある。
この伝承がこの場所にもあることについて、西行物語(桑原博史 全訳注)の解説では、「鴫立つ沢」の歌が読まれた場所が、砥上原(とがみがはら)のここではななかったかと、場所を特定する意味があったのではないかと言われている。
以上の記述は、それぞれゆかりの地の案内板と下記2冊を参照。
●西行物語(桑原博史 全訳注)講談社学術文庫
●西行(西澤美仁編)角川文庫
尚、蛇足ながら、鴫立庵には、崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建て、<著儘湘南清絶地>と刻んだことから、「湘南」の名称発祥の地といわれる。 西行と湘南には、意外な結びつきがあった。
