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趣 味・歴史

坂東八平氏の祖、平良文(村岡五郎)の墓所:二伝寺

2020年8月19日  (itazu)
★藤沢市村岡北部の二伝寺に坂東八平氏の祖、平良文(村岡五郎)の墓所があります。
(二伝寺は戦国時代、玉縄城主北条時氏によって開山された寺でありますが、この近辺に村岡城址があったとの言い伝えにより、良文、忠光、忠通3代の墓所が残っています。)
1「村岡ふるさとMAP」に記事関連箇所を拡大表示したもの:「二伝寺」を始め、平良文に関連した史跡を赤帯などで表示しています。  

二伝寺:玉縄城から尾根続きで地域で一番高いところにあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので玉縄城の砦の役割を担うために創建したと案内には記されています。

塚の入口:「雉なくや草のむさしの八平氏」と刻まれています。
<10~11世紀、関東一帯に平氏の武士団の基盤が作られる>

★平安時代中期、藤原氏や清和源氏や桓武平氏など貴族出身者が武家の棟梁とし地方に勢力を伸ばし始め、いわゆる「武士の胎動」が始まりましたが、坂東八平氏もその流れのひとつです。
★桓武天皇の4世、平高望は、国香、良兼、良持など子らを従え東国に下向し、関東一帯(常陸、下総など)に平氏武士団の基盤を作り、後に、平将門や伊勢平氏から清盛などを輩出させました。その中で末流として、5男 良文は、武蔵国、下総国、相模国などに所領を有し、鎌倉郡に村岡城を築き、その子孫が土着し、坂東八平氏と呼ばれる氏族として勢力を伸ばしていきました。
4二伝寺にある平良文公墓前碑にある桓武平氏系図(村岡郷土史研究会)注*は筆者によるもの。なお、系図は一部省略表示しています。
★10~11世紀の日本史は、将門(良文の甥)の乱、平忠常(良文の孫)の乱、奥州の前九年・後三年の合戦(後継5代城主、鎌倉景政の活躍)など武家時代の揺籃期であるが、これらの歴史の舞台に、良文の関連者がかかわっています。

<平氏の内乱を平定した源氏が東国に勢力を築く>

★平将門の乱、平忠常の乱は平氏一族の内乱ともいわれますが、平忠常の乱の平定に寄与した源頼信・頼義・義家(頼朝の祖先)が、その後、奥羽地方の豪族安部を討伐した戦役の前九年、後三年の合戦の活躍により源氏が東国に勢力を築く契機となりました。

<村岡五郎平良文公墓前碑>

平良文公の塚
★二伝寺にある平良文公墓前碑には、上記の桓武平氏系図とともに下記のように記されています。

<村岡五郎平良文公墓前碑>
良文公は桓武天皇の玄孫で886年生まれ、923年東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺比叡山麓日吉大社の祭神を城砦の守護神に勧請し(現在の日枝神社)、939年鎮守府将軍陸奥守に任じられ、翌年、平将門征討と国家安穏を祈願し、今日の山城国の御霊宮の祭神早良親王(崇道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社と旧くより伝えられ、関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏 (三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖とし、多くの荘園を有し武威を関東に振るたり。 その子孫は前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも952年67歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。(平成17年 十一月 村岡郷土史研究会 建立)

この碑文に述べられているように、平良文関連の史跡は、この二伝寺のほか、日枝神社、村岡城址公園、御霊神社があります。これらについては次回紹介します。

記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。   markenopo 2020年08月17日