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趣 味・歴史

足利氏ゆかりの古寺:浄妙寺(鎌倉五山)

2022年9月7日  (itazu)
鎌倉浄明寺地区は足利氏、上杉氏ゆかりの地

鎌倉幕府末期から南北朝にかけて、足利一族が胎動してきますが、鎌倉市浄明寺地区には、浄妙寺や報国寺や足利公方邸旧蹟があり、
足利氏、上杉氏ゆかりの足跡を見ることができます。
浄妙寺MAP
浄明寺地区地図

浄妙寺山門

鎌倉五山の第五位の浄妙寺

浄妙寺は、鎌倉五山の第五位(1386年義満決定)に指定された寺院です。
戦乱の火災で今は衰微していますが、
最盛期には23の塔頭(たっちゅう)寺院(高僧の隠居所、墓)があったといわれます。

浄妙寺
足利義兼(足利2祖)の創建

本寺の前身は1188年足利義兼(足利2祖)の創建で、中興開基は尊氏の父貞氏(足利7祖)といわれます。(下記系図参照)
鎌倉五山のうち、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺の4山は北条氏ですが、浄明寺は足利氏の創建です。
創建した足利義兼は、頼朝の旗上げ以来の重鎮です。
母が頼朝の母の姪に当たり、また、北条時政の娘、時子を妻としており、頼朝とは義兄弟の関係にあります。
頼朝にとって代わる源氏の血筋、立場にあることから、疑念を持たれることを恐れて出家しています。
asikaga 3足利一族系図
北条氏から上杉氏重視に方向転換を図る

頼朝の死後、北条が有力御家人を粛清してゆく中で、足利氏は、北条氏との婚姻関係を保ちながらも、近過ぎず遠過ぎずの立ち位置で生き残りをはかってゆきます。
第6代宗尊将軍の時、将軍とともに、後に関東管領の祖となる上杉重房が下向しますが、足利頼氏(足利5祖)は上杉重房の娘を妻に迎え、北条氏重視から上杉氏の関係強化に方向転換をしてゆきます。

足利7祖 貞氏の墓

足利家に遺された源義家と家時(足利6祖)の置文

足利家には、源義家(八幡太郎)が遺した置文があり、そこには、七代の孫に生まれ変わって天下を取ると記されていました。
その義家から七代の孫にあたるのが、家時(足利6祖)でしたが、家時は、無念にもかなわず、三代後には必ず天下取りになること祈念して置文をし自害します。
三代後には、家時の発願通り、孫の尊氏(足利8祖)が室町幕府を開き天下をとります。
「浄妙」の法名は貞氏(足利7祖,尊氏の父) 

この家時から尊氏へと家を継承したのが貞氏(足利7祖,尊氏の父)で、1257年、本寺を真言宗から禅宗とし寺名を改めています。寺名の「浄妙」は、貞氏の法名です。
境内には、貞氏の墓があります。

尚、この寺には、室町時代1352年尊氏の弟、直義が、尊氏との対立後、境内にある延福寺にて幽閉され死去した場所でもあります。(写真左)

報国寺
隣接の報国寺は、家時が開基

隣接の報国寺は、自害した足利家時(足利6祖)が1334年開基したといわれます。
しかし、没年が史実と合わないことから、家時の母(上杉重房の娘)が息子を供養した墓塔や堂宇を守り、それを上杉重兼(宅間上杉の祖、宅間とは報国寺あたりの谷をいう)が、臨済宗へ発展させたといわれています。

家時と義久の墓といわれるやぐら
報国寺は、「鎌倉公方」終焉の地

報国寺は、後年1438年4代鎌倉公方の足利持氏の嫡男義久が自刃し鎌倉公方終焉の地となった寺でもあります。
足利公方邸のあった場所は、金沢街道を少し東に行ったところにあります。
足利政権になってから、京都幕府のほかに、関東を支配する鎌倉公方を置きましたが、その拠点となったところです。

足利公方邸旧蹟
鎌倉公方、関東管領の上杉、京都将軍義教と三者の対立抗争


尊氏が征夷大将軍になって以降、足利2代将軍となる義詮の弟、義氏❶を、初代の鎌倉公方としてから、4代迄続きます。
4代持氏❹の時、関東管領の上杉憲実と京都将軍義教と三者の間で常に対立抗争があり、持氏は自刃し、息子の義久もこの寺で自刃し、鎌倉公方は終焉します。
(以降は4男の成氏が「古河公方」として復活します)


(参照資料)
「源氏の名門足利一族の選択」(Club,2021,12,JR発行)、
「鎌倉寺社122を歩く」(山折哲雄、槇野修、PHP新書)
「中世史講義」(高橋、五味、ちくま新書)
ウィキペディア他


 
 

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