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大庭城落城の際の炭化米か? - 市民ギャラリーで展示

2017年2月5日  (取材&記事:Myama)
藤沢市大庭城山にあった大庭城は、1512年(永正9年)に北条早雲が攻め落としたとされる。攻められ落城した際、城内にあった貯蔵米も焼燬(しょうき)したと思われるがそれが炭化した状態で見つかっていたことが藤沢市の調査・化学分析による年代測定で分かった。「当時の様子をうかがい知ることができる貴重な資料」として、市民ギャラリー常設展示室で開かれた企画展「大地に刻まれた藤沢の歴史V~古代~」の中で特別展示された。

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                                                        大庭城の全景

● 大庭城に関して: 藤沢市大庭城山にあった大庭城はそれに関する歴史的文献が乏しく詳細な事は未だ解明中である。城域は約南北800m、東西250mの平山であった。また周辺には北に駒寄・二番構、東に門先、西に裏門・城下などの地名が残ることから、城に関連する施設や城下が存在していたとされる。築城に関しては先述の歴史的な検証を待つところであるが地元伝承の説では1100年頃、相模大庭御厨一帯を支配していた大庭氏(おおばし)の居城として作られた言われている。さらに室町時代中頃(1457年)に扇谷上杉氏によりに江戸城を築造したことでも知られる太田道灌も関り本格的な築城がなされたとされている。しかしながら1512年(永正9年)に北条早雲に攻められ落城し以後小田原北条氏の支配下となったが1587年(天正15年)頃廃城となった。落城から廃城まで75年ほど期間があるがどの様な状況であったかは史料がほぼ皆無で明確な事はこれからの調査である。尚、この年代は種子島に鉄砲を伝わる、フランシスコ・ザビエルが、キリスト教を伝える、上杉謙信と武田信玄の川中島合戦、 織田信長の桶狭間の戦いなどとほぼ同時期です。
 大庭城落城の際焼燬(しょうき )したと思われる炭化米 出土の状況
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大庭城の構成は ほぼ最南部に主郭として東西に細長い郭があり4棟ほどの掘立構造物が存在していた。そこから 炭化米は出土した。 城内は南から北側へ主郭、二の郭、三の郭、四の郭と配置されていた。また二の郭は主郭より大きく、三の郭は二の郭より大きく、四の郭は三の郭より大きい配置になっており四の郭は広大であった。
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炭化米の出土箇所: 高床建築があったと思われる堀立柱建物跡が城郭最南部に位置する館址公園内に再現されている。その建物の南西角より炭化米が出土した。 それら柱跡は実際には地中50cmの地下にあり地表の石はその位置を表し、又再現の為西に10m程移されているので 実出土場所はほぼ隣接する舗装道路近辺となる。
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市が炭化米を化学分析したところ、15世紀中頃から16世紀初頭に燃えて炭化したことが判明した。一部にもみ殻が残っていたため、この炭化米は貯蔵していた段階で燃えたことも分かった。大庭城で攻防があったのは、北条早雲が攻めてきたときの1回限りで、その時「落城した際に燃えてしまった可能性が高いと考えられる」。
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       炭化米の塊。 横長 約10cm
左図ではコメの形のみならずもみ部など細かいところも確認出来る。 

 ● 大庭城の紹介 URLなど

藤沢市 HP  ==> こちら

     関連の新聞報道 ==> 神奈川新聞 東京新聞  産経新聞


  ◎ 市民ギャラリー常設展示室 企画展「大地に刻まれた藤沢の歴史V~古代~」は2017年1月29日で終了。  
markenopo 2018年06月03日