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5bana

2022年4月20日
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<時代背景>
★平安時代後期、関東は動乱の時代に入りつつあり、平将門の乱など、中世の主役である武士が台頭してきました。武士は、日常は農業経営者で、開発した土地を荘園として子孫に残してきました。
相模の主役は、①鎌倉景正とその一族と②源義朝(頼朝の父)でした。景正は、藤沢、茅ヶ崎を包み込む広大な荘園、大庭御厨を開拓し、これに対し鎌倉に館を構える源義朝がたびたび乱入し、所領をめぐる死闘が繰り広げられていました。
★中央と関東の両者にまたがって活躍する義朝の勢力に支配され、保元の乱、平治の乱には、景正をはじめ相模武士が義朝軍に従い参陣しました。平治の乱で義朝が敗死しますが、やがて、伊豆に流人となっていた頼朝による源氏の再興が期待されてきます。

<ゆかりのスポット>                    各スポットの詳細はこちら ⇒ 
2a

16oobamikuriya大庭御厨の範囲

二伝寺相模武士など坂東八平氏の祖、平良文の墓)
村岡城址同上、平良文の城址)
宮前御霊神社相模武士団の祖、鎌倉景政(平良文から5代目)ゆかりの神社)
皇大神宮(大庭御厨総鎮守)鎌倉景政が開発し伊勢神宮に寄進した荘園:大庭御厨)
サバ神社(頼朝の父 源義朝を祭神とする神社13ケ所:境川流域)
<その頃の主な出来事>
  935 平将門の乱
  1051 前九年の役
  1083 後三年の役
1101 鎌倉五郎大庭御厨を伊勢神宮に寄進
1156 保元の乱
1159 平治の乱
 
 
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<時代背景>

★頼朝が反平家の旗をあげ、坂東の武士たちは、頼朝を頂点とする幕府の設立を目指しました。
★頼朝の挙兵に味方したのは、伊豆の北条氏や相模の三浦、中村の一族で、清盛に味方したのは、大庭景親や伊東祐親たちでした。
石橋山の敗戦から、頼朝は、上総介広常、千葉常胤らの支援を得て鎌倉を拠点に、相模、武蔵、常陸、房総の土豪らをわずか数か月で、支配下におさめました。内乱の過程で、多くの反頼朝方の武士が転身したためです。また、木曽義仲の入京や義経などの活躍もあり、平氏は滅亡しました。
<ゆかりのスポット>                    各スポットの詳細はこちら ⇒ 2a

a13kosigoejou義経が頼朝に愁訴する腰越状
大庭城址反頼朝軍の総大将、大庭景親の拠点)
六本松古戦場庭景親と頼朝と戦った古戦場)
御嶽神社/俣野観音堂庭景親の弟、俣野五郎の拠点)
富士塚城址飯田五郎の城址:大庭氏と渋谷氏に隣接の同族の武将)
九成寺長尾定景の墓:大庭一族の武将、大船に拠点あり)
土屋宗遠城址三浦の一族で平塚に拠点あり:頼朝軍に加勢)

岡崎義実館址三浦の一族で平塚に拠点あり:義朝時代からの家人)
天徳寺真田与一ゆかりの寺(岡崎義実の息子:長尾定景と激闘:平塚)
満福寺源義経が兄頼朝に愁訴した「腰越状」ゆかりの寺:腰越)
源義高の墓(常楽寺裏山にある木曽義仲の息子「義高」の墓 大船)/岩船地蔵堂(大姫):鎌倉)
<その頃の主な出来事>
  1180 頼朝挙兵、石橋山の合戦
  1181 平清盛死す。
  1183 木曽義仲入京
1185 屋島・壇之浦の戦い、平氏亡ぶ
1185 義経、頼朝に愁訴、腰越状

5bana

 
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<時代背景>
★平安時代後期、関東は動乱の時代に入りつつあり、平将門の乱など、中世の主役である武士が台頭してきました。武士は、日常は農業経営者で、開発した土地を荘園として子孫に残してきました。
相模の主役は、①鎌倉景正とその一族と②源義朝(頼朝の父)でした。景正は、藤沢、茅ヶ崎を包み込む広大な荘園、大庭御厨を開拓し、これに対し鎌倉に館を構える源義朝がたびたび乱入し、所領をめぐる死闘が繰り広げられていました。
★中央と関東の両者にまたがって活躍する義朝の勢力に支配され、保元の乱、平治の乱には、景正をはじめ相模武士が義朝軍に従い参陣しました。平治の乱で義朝が敗死しますが、やがて、伊豆に流人となっていた頼朝による源氏の再興が期待されてきます。

<ゆかりのスポット>
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16oobamikuriya大庭御厨の範囲

二伝寺相模武士など坂東八平氏の祖、平良文の墓)
村岡城址同上、平良文の城址)
宮前御霊神社相模武士団の祖、鎌倉景政(平良文から5代目)ゆかりの神社)
皇大神宮(大庭御厨総鎮守)鎌倉景政が開発し伊勢神宮に寄進した荘園:大庭御厨)
サバ神社(頼朝の父 源義朝を祭神とする神社13ケ所:境川流域)
<その頃の主な出来事>
  935 平将門の乱
  1051 前九年の役
  1083 後三年の役
 1101 鎌倉五郎大庭御厨を伊勢神宮に寄進
  1156 保元の乱
  1159 平治の乱
 
 
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<時代背景>

★頼朝が反平家の旗をあげ、坂東の武士たちは、頼朝を頂点とする幕府の設立を目指しました。
★頼朝の挙兵に味方したのは、伊豆の北条氏や相模の三浦、中村の一族で、清盛に味方したのは、大庭景親や伊東祐親たちでした。
石橋山の敗戦から、頼朝は、上総介広常、千葉常胤らの支援を得て鎌倉を拠点に、相模、武蔵、常陸、房総の土豪らをわずか数か月で、支配下におさめました。内乱の過程で、多くの反頼朝方の武士が転身したためです。また、木曽義仲の入京や義経などの活躍もあり、平氏は滅亡しました。
<ゆかりのスポット>
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a13kosigoejou義経が頼朝に愁訴する腰越状
大庭城址反頼朝軍の総大将、大庭景親の拠点)
六本松古戦場庭景親と頼朝と戦った古戦場)
御嶽神社/俣野観音堂庭景親の弟、俣野五郎の拠点)
富士塚城址飯田五郎の城址:大庭氏と渋谷氏に隣接の同族の武将)
九成寺長尾定景の墓:大庭一族の武将、大船に拠点あり)
土屋宗遠城址三浦の一族で平塚に拠点あり:頼朝軍に加勢)

岡崎義実館址三浦の一族で平塚に拠点あり:義朝時代からの家人)
天徳寺真田与一ゆかりの寺(岡崎義実の息子:長尾定景と激闘:平塚)
満福寺源義経が兄頼朝に愁訴した「腰越状」ゆかりの寺:腰越)
源義高の墓(常楽寺裏山にある木曽義仲の息子「義高」の墓 大船)/岩船地蔵堂(大姫):鎌倉)
<その頃の主な出来事>
  1180 頼朝挙兵、石橋山の合戦
  1181 平清盛死す。
  1183 木曽義仲入京
  1185 屋島・壇之浦の戦い、平氏亡ぶ
  1185 義経、頼朝に愁訴、腰越状