⇧ クリック  2022年9月10日
岩萌え(いわくえ)の枕言葉で表されている鎌倉は、古くは万葉集の中でも、岩が多く岩石 のくずれている所として読まれていました。頼朝が、鎌倉幕府を開いたときは、海側以外の三方は険しい山、絶壁の要害堅固な地形を利用した「鎌倉城」というべき防衛で守られていたという事は NHKドラマ「鎌倉殿の13人」などでも触れられているように広く知られています。その山々を通る切通は 7つ余り作られましたが現在にもその面影を残す所、全く様変わりした所などあり市民の生活の中にもその面影を垣間見る事が出来ます。 その切通しの殆どが、国指定史跡として保存されており、今回、編集スタッフ一同手分けして七口の切通しを歩いてみました。
●鎌倉の出入り口として切通しが七つ
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当時鎌倉の交通網は鶴岡八幡宮を中心にこれら交通ネットワークとの接点(出入口)が鎌倉七口(切通し)といわれるものです。「いざ鎌倉」有事の際は各地から鎌倉に馳せ参じるための軍用道路が造られました。
大別すると 
  ・三浦半島に向かう名越切通し❼
  ・上道(武蔵西部を経て高崎に至り、信濃、越後へ)に向かう仮粧坂切通、大仏切通し❸❷
  ・中道(武蔵国東部を経て下野国から奥州へ)に向かう亀ヶ谷坂坂切通、巨福呂坂切通❹❺
  ・下道(三浦半島東海岸に向かい武蔵国東側の東京湾沿いを北上して常陸へ)朝夷奈切通❻
  ・東海道・京都に向かう極楽寺坂切通 ❶
鎌倉幕府は、鶴岡八幡宮を浜から北山に移し、由比ガ浜から直線道路の若宮大路をつくりこれを軸に都市造営を行ないました。交通と防衛拠点として切通しを整備したもので、北条泰時が尽力し、多くが整いました。

一方、鎌倉七口(切通し)は軍用のみならず外部との交流が多くなることから、巨福呂坂の商売屋、仮粧坂の町屋、名越の町屋など商業活動が発展したといわれます。又切通しは、境界に位置するところから、墓所が多くみられます。大仏切通しや名越切通しの岸壁にはやぐら(納骨窟)群があり、仮粧坂は日野俊基処刑場、また、巨福呂坂、極楽寺坂は地獄谷(葬送地)といわれていました。
    
 
表は横向きでご覧ください。
 
  
 

場所

       内容、 エピソードなど

      通ずる道

 ❶極楽寺坂切通し

 長谷坂ノ下⇔極楽寺。

◆1267年忍性が開く。それまでは海岸沿いの稲村路を利用。

◆新田義貞鎌倉侵攻の際、巨福呂坂、仮粧坂、大仏、極楽寺坂と別れて侵攻しましたが、成功せず、結局、稲村路から攻めた。

◆極楽寺の建てられた場所は、地獄谷といわれた葬送地。

東海道

 ❷大仏切通し

 大仏裏⇔梶原方面

◆岸壁にやぐら(納骨窟)が残る。

鎌倉街道上道(東山道、武蔵路)

◆頼朝以来特別な信仰かあった信濃善光寺へ道

◆街道沿いには主要御家人が多く、「いざ鎌倉」の主要道路。

◆新田義貞鎌倉侵攻

 ❸仮粧坂切通し

 扇ヶ谷、源氏山⇔梶原方面

◆幕府公認の商売の町屋があり、武蔵路への物流の拠点として賑わう。

◆ケワイ:身だしなみを整える意味

都市(ハレの場)に入る入口。

◆元弘の乱の日野俊基の墓(処刑場)。

 ❹亀ヶ谷坂切通し

 扇ヶ谷、亀ヶ谷⇔山之内

◆建長寺の亀の「亀返坂」。

◆亀ヶ谷坂は義朝の館址。岡崎義実が義朝の菩提を弔う祠を建立。鎌倉殿館の候補地(実際は大蔵へ設置。

鎌倉街道中道

◆奥州平泉戦では頼朝は中道を行った。(奥州街道)

 ❺巨福呂坂切通し

 雪の下⇔山之内

◆泰時が整備(山内荘は得宗領)

◆地獄谷といわれた葬送地。

◆一遍上人が鎌倉入りしようとして北条時宗に拒絶される(一遍聖絵)

 ❻朝夷奈切通し

 十二所(じゅうにそ)⇔六浦港

◆中世物流の主要道路。滑川の源流。

◆六浦は塩の産地。安房、上総、下総をはじめ、海外からも物資集散の港。

船で運ばれた各地の物資はこの切通しを超えて鎌倉入りした。

◆六浦荘は一門の金沢氏の所領。

◆泰時の命で1240年七口で一番長い六浦道を開削。開削した朝夷奈義秀(和田三郎の三男、豪傑だったため巴御前の子ともいわれる)の名に由来。

鎌倉街道下道

三浦半島縦断(六浦) 東京湾 房総半島(木更津)

 ❼名越切通し (南)

 名越⇔逗子、三浦半島

◆名越は「難越」に由来。

◆北条時政館跡名越の地にあり。

◆逗子側に、松葉ヶ谷法難の際、日蓮が猿に導かれ逃れた霊跡とされる法性寺(ほっしょうじ)がある。

◆まんだら堂の大規模やぐら群

◆鎌倉側の長勝寺境内遺跡には、市場のような町屋があったといわれる。

海路で房総へ

その他

 釈迦堂口切通し

 大町(名越)⇔浄明寺地区

◆1224年北条泰時が、父義時の菩提を弔うために、この谷に釈迦堂を建てたことに由来。

◆がけ崩れの危険があり1977年以来通行は禁止されている。

 稲村路

 腰越―稲村ケ崎⇔鎌倉

◆政子が鎌倉入りの際はここから通ったといわれる。潮の満ち干に影響される。

◆新田義貞の侵攻

 

 和賀江島

 外港、

◆泰時の許可を得て勧進上人往阿弥陀仏が、1232年大型船接岸のための人工島を造営。宋船など大型船の入港

◆極楽寺が関銭を管理。

 

 六浦津

 外港

◆北条(金沢)直轄、東京湾の海上交通の拠点、唐船、琉球船が来航し繁栄。

◆称名寺(金沢実時)が関銭を管理。

 

参考文献: 五味文彦著 鎌倉と京都(講談社)  堤 治郎著 かまくら切通しストーリー、奥富敬之 奥富雅子著 鎌倉古戦場を歩く、 ウェキペディア、 鎌倉市HP、 逗子市HP

記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。   markenopo 2022年9月12日